今夜は一緒に踊ろう

読んだ本の話とか、考えたこととか、自省と希望とか。

私たちはなぜ、あの人のことを尊敬できないのか

「あの人が言うんだから間違いないよ」

 

と言われる人がいる一方で、

 

「仕方ないな、地位だけあって大したことのない人なのだから」

 

と言われる人がいる。

 

 

別に、尊敬なんてされなくたっていい、好きなように自分が楽しく生きられたらいい、という享楽主義も私は大好きなのだけれど、今日は「尊敬」について書き記しておきたい。

 

仕事柄、トップマネジメントと話す機会が多い。

そんな中で、「尊敬を集める人」と「そうでない人」がいることに気付いたのは、この仕事を始めてから1年ほど経った頃だった。

恥ずかしいことに、「尊敬されたい」と微かにでも願ってしまうようなちっぽけで軽薄な人間である私にとって、これは大問題だった。

それでも、「尊敬される人」「そうでない人」、両者を比べても何が違うのかわからなかった。私は両者の違いを、死に物狂いで探し始めた。最初は、手当たり次第に、周囲の人に尋ねてまわった。

尊敬される人とそうでない人の違いは何か?本当に恥ずかしいことをしていたと思う。それでも聞かずにはいられなかった。当時の私にとって、それが世界だったのだ。

 

「人としての器の大きさだよ」

 

とある人は言った。

 

「思いやりがあるかどうかじゃない?」

 

と言った人もいた。

 

私は満足できなかった。人としての器も、思いやりも、あまりにもグレーだったからだ。

曖昧さを許すことが出来なかったのは、未熟なせいなのかもしれない。

が、そのうちに私は、尋ねることをやめた。

「尊敬されること」に執着することに虚しさを感じたからだ。そこに向かえば向かうほど、「尊敬される人」からはむしろ遠のいているように思えた。

それでも心のどこかに、その「尊敬される人になるにはどうしたらいいのか」という浅はかでいかにも人間らしい、鈍色の塊が棲みついていた。

 

それで月日が経って、ある資格の講座で講師をしているある女性の話を聞いて、何となく、思ってもみないところから答えが見つかったのだ。

 

つい先日のことである。

 

私が最近受けている資格の講座は、毎回実践形式のワークがあるのだけれど、とにかくその日の講義での実践が酷いものだった私は、ひどく不安になって

 

「上手くいかないんです、それで、不安なんです。将来、私にこの仕事ができるとは思えなくて」

 

と、浅慮にも彼女に零したのだ。それを深く頷きながら聞いて、彼女はゆっくりと、まずは以下のように話し出した。

 

「不安でいいんですよ」

 

「どういうことですか?」

 

「自分の仕事に、プロとしての自信を持つことも大切です。けれど、一方で自分に問いかけ続けることが必要なんです。今の話し方で良かったのか、自分は本当にクライエント(お客様)のことを思いやったのか」

 

彼女はまた少し考えるようにして、それから深く息を吸って、微笑んだ。

 

「ずっと考え続けるんですよ。私もいつも、仕事が終わった後考えています。でも、しんどいかもしれないけれど、それでいいんですよ」

 

気づいたら泣きそうになっていて、私はなんとかそれを隠そうと慌ててお礼を言って、頭を下げた。

彼女はきっと私が泣きかけているのを察していたけれど、それでも気づかないふりをしてくれた。彼女に流れている時間はあまりにも重厚で、それでいて軽やかに多くの人の心を包んでいた。そして、少し寂しそうで、それでも誇らしげな彼女の顔を見て、私はその時、この人のことを「尊敬している」と確かに思ったのだ。

 

私たちはなぜ、あの人のことを尊敬できないのか。

私たちはなぜ、あの人のことを尊敬できるのか。

 

両者の違いはきっと、その人が「自分に問いかけ続けているのかどうか」なのだと思う。

自分の仕事はどうだったのか、誰かに掛けた言葉は本当にその人のことを思いやったものだったのか、今日の振る舞いは、そして、今生きているということについて。生かされているということについて。果たして、今私はより良く人生を生きている?生きようとしている?

 

「自分に問いかけ続けること」は苦しい。そんなこと手放してしまって、「私の言うことが正しいに決まっている」「この道が正解だ」と思う方が、楽に決まっている。それに、自分を肯定的に見ることも、生きていく上では重要なことだとも思う。

 

それでも、「問いかけ続ける人」には余白がある。たくさんの選択肢や価値観や、誰かを受け入れる余白が。

私は戦ってきたのだという自負がある。そして、辛さを背負って生きる、きっと本質的には誰とも共有できない孤独がある。

 

その余白に、自負からくる静かな自信に、孤独に、人は惹かれるのではないだろうか。

 

立場が上になればなるほど、きっと自らに問いかけ続けることは難しくなるのだと思う。

何故か?肯定してくれる人が増えるからだ。悲しいかな、利権が絡めば人は平気で嘘をついてしまう生き物だ。それに、トップマネジメントともなれば「これでいいのか」などと考えている暇はないのかもしれない。

それでも、その、世間では「お世辞」と呼ばれるそれに酔って、または考えることをやめてしまって、「私は正しいのだ」としか思えなくなってしまったときに、「これでいいのか」と問いかけが出来なくなってしまったときに、きっと人の心は離れていく。

 

だから、「尊敬されるかどうか」なんて、本当はどうでもいいことなのかもしれない。

私たちはそんなことよりももっと、毎日に深く潜って、日々を苦しみながら楽しんで味わい尽くして、そして、存分に不安と夜を踊り明かしたらよろしいのでしょう。

きっと悩んで苦しんだ分だけ、私たちに余白はできる。その余白が、誰かを救ったり、誰かと手を繋ぐ場所になるのかもしれないから。

 

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なんて。そう信じていないとつぶれてしまいそうな夜なのです。

知ったような口を利く、ちっぽけな私を許してください。でも私たちはやっぱり、悩んで苦しんで暴れまわったらいいと思う。この気持ちが、誰かと繋がることを祈るように信じて。

私たちは可愛い生き物であるということと、絶対言ってはいけないこと

金曜日の真夜中だからといってカレーを作りました。

 

 

夜は好きだけれど、同時に寂しい時間でもある。

孤独に耐えかねて報告したら、殊の外たくさんの方が反応をしてくださって、きっと孤独にカレーを作る私を励ます優しい皆様の素敵なお気持ちもあったと思うのだけれど、同時に、「カレーって多くの人がニッコリしちゃう食べ物なのかもしれない」とも思った。

 

思えば、小学生のころ、給食がカレーの日には心が躍るようだった。

四時間目が終わってカレーの匂いがしてくると、班机にするのに持ち上げた、教科書と数冊の本でぎっしり、整理が出来なくてプリントだらけの机もいつもより軽かったりして。

だって、あのカレーのスパイスの香りがしてくると、思わずにっこりしてしまいませんか?足取りも軽くなってしまうし、なんなら通常時と比較して3センチほど浮いているかもしれない。

きっと、多くの人がそうなのではないかなと思っていて。

 

あら、カレー、そうでもないんだけど。または、嫌いなんだけど。というあなたもどうぞへそを曲げないでくださいね。

好きなものがカレーじゃなくたって、おんなじことなんですよ。

 

カレーじゃなくたって、きっと画面の前のあなたにもあると思うんです。これが目の前にあったらほっぺたが緩んで、子どもの頃みたいにふわふわとした気持ちでニッコリしちゃうな、って何か。

ああ、今思い出せなくても大丈夫です。きっとそれは恥ずかしがり屋なだけで、ちゃんとあなたの胸の中にはいる。絶対にいます。隠れているだけですから。

 

それで、思ったことなのだけれど、私たちは思っているより本質的には、存外可愛らしい生き物なのではないのかしら。

 

あの小難しい本を読んでいかにも頭の良さそうな人も、いつもすまし顔で何を考えているかわからないお嬢さんも、高踏派を気取りながらどこか厭世的な彼も、「お局」と呼ばれて寂し気に誰かを糾弾する彼女も、どうしても相容れないあいつも、みんな、何かの前では子どものようにニコニコしてしまうこと、それってとっても可愛らしくて、愛おしいことだと思う。

 

だから、私たちはもっと自分のことを可愛いと自覚して、可愛がってあげたっていいのかもしれない。

私たちはみんな、きっと何かから追い立てられている。自立しろと、自分を律して、厳しく生きた方が良いと、きっと誰もが誰かに言われたり、何かから教えられたりして生きている。

そんな中で、ついつい自分を可愛がることは後回しにしてしまいがちなのではないでしょうか。

もちろん、自律することは大切なことです。自分に厳しくいることだって必要なことだと思います。それでも、いつもそんな自分でいようとなんてしなくて良い。疲れたら、荷物は下ろしてもいいんです。自分を可愛がっていいんです。

 

そして、同じように、誰かのことももっと可愛がってあげていいんです。

 

でもね、誰かを可愛がるのなら気を付けなければならないことがある。

あくまで自分のために、誰かを可愛がらなくてはいけません。

図々しいかしら?いいえ、そんなことはありません。

最も図々しいのは「あなたのためよ」だなんて思うこと。

「あなたのためよ」だなんて、微塵も思うべきではないし、ましてや声に出してはいけません。何故なら、「あなたのためよ」と思いたい私がただそこにいるだけのことだからで、誰かのためを思ったことって、大抵の場合自分のためのことだったりするから。そしてそのあと、とても空しい気持ちになるから。

これは余談ですが、「あなたのためよ」と言う人が、本当に「私のため」に何かしてくれる気持ちがないことくらい、人は感覚的にわかるものです。

 

それでも誰かのことを可愛がるのは、「可愛がること」の練習をするためです。

このご時世、上手に「可愛がる」ことのできる人の方が少ないのではないかしら、と思うし、うまく「可愛がる」やり方はきっといくらでも練習できる。

 

誰かのことを「あら、可愛い人ね」と思いながら接することで、私たちも、自分をうまく可愛がれるようにならないかな。そうしたら人生がまた少しだけ豊かにならないかしら。なんて、そんな風に思うのは聊か能天気すぎるのかもしれないけれど。

 

でもね、誰かを可愛がることを通してきっとあなたも可愛い自分に気づくことが出来るから。

そうしたら、うんと自分を甘やかして、たまにはニッコリしちゃうものだけと過ごして、可愛い自分と踊りながら、ご機嫌に生きていきましょうよ。

 

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そして、素敵で可愛いあなたと私がどこかですれ違ったときには、「あら、可愛い人ね」と心の中で言いながら、世界で一番可愛いウインクをしあうことにしましょう。

その時まで、どうかお元気で。

私たちの中に棲んでいる魔物と、暴れるしかない私と、あなたと

「それにしても……いい歳して管理職にもならない男なんてどうかと思うのよ」

 

という上司の言葉を聞いて、どきりとした。

狭い作業部屋には雨音が響いている。窓の隙間から入り込んでくる湿気た空気は、とりあえずこの世界と溜まった仕事をうんざりさせるのにはもう十分すぎるほどで、つまるところ私たちは二人、溜まった仕事を片付けながらあれやこれやと話をしていた。

一緒に仕事をしていた私の上司の一人である彼女は「自分が管理職である」という話が好きなので、今日もその話をしていたのだ。

話は「女性活躍」から、「男女関係なく評価されるべきだ」と変わり、「それなのに男の人は私たちを差別する」という話になってから、もう一度「女性は管理職となり活躍するべきだ」というように移り変わっていた。

 

私はなるべく作業の手を止めないように意識して、さりげなく、いや、さりげなく見えるように細心の注意を払いながら、冒頭のセリフを言い放った彼女の顔を見た。

半笑いのその目には、自信とも不安ともとれない、灰色の何かが渦巻いている。

突然耳元でテレビの砂嵐みたいな音が聞こえたような気がして、私は一瞬にしてどんな顔をしたらいいのかまるで分らなくなってしまった。が、一先ず微笑もうと努めた。上手くは笑えていなかったと思うけれど。

社会人になってから、微笑むことがこんなにも難しいことだったのだと痛感している。

 

「仕事以外に、なにかやりたいことがあるのかもしれませんね」

 

これは彼女が求めている返答ではないと思いながらも、引くことは出来なかった。

 

「趣味に生きたい人なのかも」

 

「そんなこと、ある?」

 

「そんなはずあるわけがない」というように、彼女の声は責め立てるように大きくなる。私はもう泣き出しそうになりながら、なんとか次の言葉を考えた。

 

「……何もやりたいことがないなんて、そんな悲しい人、いるでしょうか」

 

ほとんど祈るように私は言った。この話は終わらせたかった。

だって、どんな人でも、男でも女でもそれ以外でも、好きに生きていいはずなのだ。部下のマネジメントをしても、スペシャリストとして生きても、そんなことに囚われるのはやめちゃってのんびり本を読んで生きても、何をしたって個人の自由のはずだ。

何もしない、ということすら、やりたいことの選択肢の一つかもしれない。

が、そんなことは、少なくとも私が今言うべきことではないし、どんなに苦しくたって、「そう思いたい」彼女を批判する権利は私にはないのだ。

これは、彼女の問題だ。でもどうして、こんなに胸が苦しくなるのか。一体何と対峙しているというのか。

 

雨足は強くなる。誰かれ構うものか、という音をさせて、窓の外を車が通り過ぎて行ったために、私は窓際で冷えた体を急に思い出して、身震いをした。

静かに作業に戻りながら、彼女が今まで見てきたものに思いを馳せることにする。

 

明らかな田舎で、男性社会。一般職として入社して、それでも小さな会社だから仕事はたくさんあって、そして、その中で客観的に見ても明らかに自分より働いていない人が自分から見れば男だというだけの理由で昇進していく。悔しかったのかもしれない、苦しかったのかもしれない。

だからそれが、彼女を「女性活躍推進という便利な毛皮を被った男性批判の魔物化」へと駆り立てるのかもしれなかった。誤解を避けるために伝えておきたいのだが、なにも彼女が悪いという話ではない。誰の心にも似たような魔物は棲んでいる。

 

「偏見」という魔物。

 

正直、彼女のセリフを聞いた時、私は背中に冷や水をかけられたようだった。

誰の心にも形を変えて、彼女の被っていた「便利な毛皮」は置いてあるのかもしれないと思ったからだ。そして、私の心にも明らかに、この「魔物」は棲んでいた。

 

私たちが例えば、女性の方が優れている、男性の方が優れているとか、本を読まない奴は馬鹿だとか、あいつらより自分の方が賢いとか、「こう思いたい」と思ったとき、魔物は姿を現して、私たちを誘惑する。

きっとこの魔物は本当の意味では倒すことはできなくて、それでも、抗わないといけないと思うことには説明がつかないままだけれど。

 

それでも、今の私は抗っていきたい。

ひょっとしたら、この気持ちの出発点でさえ、「魔物」なのかもしれないと思いながら。

そして、きっといつまでもこのままではいられないと、微かに予感しながら。

 

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私もいつか彼女のように、何かを「そう思わなくてはいられない」と思うような経験をするのだろう。そして、それだけ私たちは価値観めいたものを手に入れて、別の何かを失い続けるのかもしれない。

そのことに目を向けたくない私はまだ若くて、愚かで、欲張りで、まだほとんど何も持っておらず、同時に何か、燃えるような、ぎらぎらとした、今しか持てない何かを持っているのかもしれないのです。

 

今日のことを忘れずにいたくて、明日にはいなくなってしまうかもしれないこの気持ちを残しておきたくて、それでこの文章を書いている。

魔物を「魔物」と呼び、何も捨てられなくて暴れまわって抗う道しか見えない今日のことを、いつかの私や、かつて何も持たずに暴れていた誰かが見つけて、ああ若いな、なんて笑ってくれたら。

 

そんな風に思う。

今更何を一人で頑張っているのだ。私たちはハムちゃんずでしょ?

心が終わっちゃいそうになった時には、自分のことをかわいいハムスターだと思うことにしていて、そうすると

 

「いや、こんなに落ち込んでても仕方ないな」

 

って思えてくるし、むしろ

 

「人語を話すことのできるハムスターである私、最強なのでは?」

 

と思えてきたりして、とにかく大体のことが何とかなってしまう。

人生なんて気持ち次第よ。

これはライフハック。覚えておいてね。

 

それで、最近の仕事の話なのだけれど、最近になって「一人で頑張ること」なんてちっぽけなことなのだなと思うことが続いている。

そもそも会社そのものが「組織」という人の集まりによって成果が上げられるような仕組みになっているのだから考えてみればそれは当たり前のことなのだけれど。

いいえ、会社に囚われなくたって、この社会の大抵のことは人が協力し合うことで回っている。

それでも、私含めた一定数の人間は「一人で頑張ることは正義」だと誰かから言われたり、何かから教えられたりして来ていて、だからついつい「一人で頑張ろう」としてしまう。

 

けれど断然、皆でやったほうが良いものが出来上がることの方が多い。

場が混乱してどうしようもなくなることもまあ、ないわけではないけれど、結局のところ知恵は複数人で出し合い、うまくまとめた時が一番成果が上がる。

それで、やっぱり一人で頑張ろうとしていた自分から抜け出せなかったときの私は悲しくなっちゃって、ヒマワリの種をもひもひするのだ。

 

昔、「とっとこハム太郎」を見ていた私と同い年くらいの方ならわかってもらえると思うのだけれど、会社員こそハムちゃんずのようであるべきだ。

え?知らない人は絶対見た方が良いです。かわいいから。

 

ハムちゃんずにはリーダーシップのとれるハム太郎をはじめとして、穴を掘るのが得意なタイショーくん、しゃべれないけどかわいいちび丸ちゃん、面倒見のいいマフラーちゃん、知識豊富なのっぽくん、工作の得意なパンダくん、ぼんやりしているけど優しいこうしくん、その他個性豊かなハムちゃんたちが出てきて、みんなで協力しながらいろんな問題を解決する。

私たちもそれぞれ、得意なことも不得意なことも違って、だからこそ補い合って生きていけるんだし、それに、協力したら大きな問題だって解決できちゃうと思うのだ。なんて、手放しに言うだけなら簡単なんだけどね。

うまくいかない時の方が多いかもしれない。

でもね、誰かと理解しあえないやるせなさで泣きたくなる夜とか、心無い言葉をぶつけられて誰かと話すのが嫌になっちゃうときでも、「ハムちゃんずという社会の一員であること」だけは忘れずにいたいな。

だって今どんな目に遭っていたって、おんなじハムちゃんずとして、何かを分かち合ったり、喜び合ったりできるかわいい、愛おしい、どなたかがこの世には絶対いるはずだから。

 

だから、私は何が言いたいかって、私はハムちゃんずだし、画面の前のあなたもハムちゃんずなんです。

 

 

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……ハム太郎知らない皆さんはごめんなさいね。

何度も言うけど知らない人は絶対見た方が良いです、かわいいから。へけっ

 

youtu.be

「マッチングアプリでより良い相手と出会うコツ」と、地獄

「これね、コツがあるのよ」

 

「へえ、すごい、どんな?」

 

マッチングアプリの話をした。

恋愛目的で不特定多数の人と会うためのSNSというものに全く触れてこなかった私は、彼女の話をどこか外国の話を聞くようにして聞いていたけれど、話は盛り上がっていた。

ただ、まだ昼間だというのになんだか外は暗くて、15時過ぎのカフェはなんだか曇ったように、どんよりとしている。そういえば今日は午後から雨が降ると天気予報で言っていた気がするのに、折り畳み傘を持ってくるのを忘れてしまった。

 

「まずはプロフィール欄をね、しっかり書いたほうが良いのよ」

 

彼女は自分のスマートフォンの画面をこちらに差し向けながら続けた。

 

マッチングアプリって、女の子のほうが登録者数が少ないところのほうが多いの。だから、大して『ちゃんとやらなくても』男の子から誘ってもらえるんだけど、そういう女の子と差別化するためにちゃんと書くの」

 

「そうすると、良い印象を与えられるでしょう?ちゃんとしてるなって」

 

プロフィール欄を私に見せながら、彼女は誇らしそうに私を見つめていて、私が「そうなんだ、どんなプロフィール欄を書いているの?」と尋ねると、「見てもいいよ」少し嬉しそうにスマートフォンを私に手渡した。

彼女のプロフィール欄は確かに「力作」ではあった。

細やかに記載された趣味や、「どういう人と出会いたいのか」、それから休日の過ごし方、あとは、自分がどういう性格の女の子なのか。将来はペットを飼って暮らしたいこと、それからそれから……もうよく覚えていないけれど、そんなことが画面4スクロール分くらいの内容で書かれていた。

 

「すごい、細かく書かれてるね」

 

「でしょう?あとはね、写真をしっかり選ぶことも重要なのよ」

 

彼女は私の持ったスマートフォンを反対側から器用に操作して、自分の写真が写ったページを見せてくれる。彼女の写真はどれも上手いこと「盛れて」いた。

あとは趣味のよくわかる、綺麗な写真が多い。

 

「写真は何枚も登録できるんだ?」

 

「そう、趣味のわかるようにカフェの写真とかを載せてて……」

 

「これを見て同じような趣味の男の子が連絡をくれるんだね」

 

「そうなのよ、もし始めるんなら、写真は厳選したほうが良いに決まってるんだから」

 

彼女の言うことは恐らく当たっていて、実際のところ彼女はたくさんの男の子から連絡を貰っていた。

人のやっていないことを丁寧にすることで、差別化を図り、「いい男の子を捕まえられる」のかもしれない。

でもなんだか、私にはそれがとても悲しいことに思えた。

もっと言うと、「地獄」みたいだな、と思えてしまった。

 

男の子たちがたくさん載っている画面をみたときの印象は「品評会」だった。

恐らく男の子たちも女の子を評価する目線で見ていて、お互いに「評価」しあっている。

そうして、自分の中で「まあまあ私の恋人としては優秀なんじゃないの?」という誰かと出会って、もしかしたら本当に気が合って素敵な関係になれることもあるのかもしれないけど、そこに行きつくまでのこの作業は、一部の人間にとって明らかに地獄だった。

不特定多数の人を「自身の恋愛対象として評価する」ようにできているこのアプリを使うということは、ある種「そういう目線で」相手から評価され続けるということだ。そして、「品評会」には他の応募者たちがたくさんいる。その気配を感じながら生きなければならない。

マッチングアプリをすること自体が悪いということを言いたいのではない。趣味の合いそうな幅広い人と出会うという面では、たくさんの人と出会うという単純な目的でいえば、非常に役立つアプリだと思うし、実際私もその後彼女に言われるがままに登録した。その後全然触っていないけれど。

ただ、やっぱり「結婚をしたい」「彼氏が欲しい」と祈るような気持ちでこれらのアプリを使用することは、やはり地獄のように思える。

 

彼女の根底にある、「いい男の子を捕まえて幸せになりたい」という欲求。

「いい男の子を捕まえて身を固めれば、幸せになれる」という確信めいたもの。

 

それが彼女をこの「女の子としてライバルよりも評価されなければならない地獄」に駆り出していた。

その日の彼女の話のほとんど、「結婚」がメインテーマだったように思う。

 

「はやく誰かと結婚して、落ち着いて幸せになりたいの」

 

ぽつりとそう零した彼女は全然幸せそうじゃなくて、胸が苦しくなった。私は友人としてとても、彼女のことが好きだから。彼女はいつも身綺麗にしていて、流行にも敏感でお化粧にも詳しい、真面目で努力家で、素敵な女の子なのだ。

 

「結婚したら幸せになれるのかなあ?」

 

「それはそうでしょ。えっと、もしかして春名は結婚したくないの?」

 

「それは、うーん……できるならしてみたいかなあ……」

 

それ以上はもう、何も言えなかった。

 

「結婚」と「幸せ」は私の中では明らかに別物だし、「恋人ができること」と「幸せ」も私は別のところに置いておきたい。きっと彼女とその点では分かり合うことができなかったから。

 

それに、結婚して幸せになるにはそれなりに「二人で生きること」に向けた相互努力が必要なはずだ。「結婚」の実績が解放されたところでなんでもかんでも幸せなはずはない。他にも生き方はたくさんあるはずで、でも、どうして私たちはこんなに「結婚」という言葉に重みを感じてしまうのか。これは幻なのだろうか?

そんなことを考えている間に外ではざあざあと雨が降り出した。

 

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私と同じように傘を忘れた人たちが走っているのを横目に、私はそっと彼女にスマートフォンを返してお礼を言う。

私と彼女の間には少しだけ、それでも明らかに距離ができていて、私は「結婚」という単語を憎んだ。この生き方も地獄なのかもしれないと思いながら。

三島由紀夫「詩を書く少年」を読んで、「詩人」とは何かについて考えたあれこれ

「『僕もいつか詩を書かないようになるかもしれない』と少年は生れてはじめて思った。しかし自分が詩人ではなかったことに彼が気が付くまでにはまだ距離があった」

 

この最後の文を読んで、ああ、少年は三島由紀夫であったのだと思うのと同時に、「三島由紀夫にとって詩人とは何なのか?」ということが頭から離れなくなった。

 

少しだけ長くなってしまったので目次を付けます。

また、この記事に出てくる『詩を書く少年』の記載はすべて

三島由紀夫 『日本文学全集 三島由紀夫集』集英社(1971年)

から引用させていただいております。

 

 

『詩を書く少年』について

『詩を書く少年』については、Wikipediaに以下のように記載されている。

 

『詩を書く少年』は、三島由紀夫の短編小説。三島の自伝的作品である。詩の天才と自認し、詩作の幸福に酩酊していた少年が、或る親しい先輩の恋愛の告白の中からその滑稽さと、自らの無意識のナルシシズムを発見し自意識に目ざめる物語。詩作に耽溺していた15歳の頃の自分を、30歳を前にした三島が冷静に顧みた私小説的作品で、少年(三島)が詩人にならずに小説家になったその転機と、三島文学全体にわたる一つの主題を考察する上で、重要な手がかりとなる作品である。なお、作中に登場する文芸部の先輩Rのモデルは、三島の学習院時代の先輩であった坊城俊民である。

 

 

つまり一言でいうと、「俺、詩の天才じゃん!」から、「俺、詩の天才だと思い込んでんじゃない?」の過程を描く物語である。

 

批判と反論は受け付けます。文学作品を一言で言おうとしてすみませんでした。

ところで、この感覚に似たものは割と普遍的なものなのではないかと思っていて、本題と逸れるからあまりここで深くは追及しないけれど、「私すごくない!?」と思った後は大体、そう思っていた自分の未熟さと浅はかさに苦しめられたりしますよね。

 

さて、冒頭で述べた通り、私はこの小説を読んでからというもの、三島由紀夫のいうところの「詩人」とは一体何なのかということに囚われ続けて生きてきた。

きっと器用な人はすんなりわかってしまうのだろうけれど、私にはなんだかぼんやりと輪郭だけ見えるだけで、どうしようもなかったために手がかりを探すことにした。

 

ゲーテと少年

そこで、「ゲーテ」という聞いたことはあるけれどほとんど読んだことは無い作家の名前が、この小説の中によく出てくることに気付いた。そして、作中、少年はゲーテを否定している。

ということは、詩人でない少年との対比としてゲーテが用いられている、のかもしれないような気がする。

そんなぼんやりとした理由で、「ゲーテ」に触れてみようと思って、ひとまず『ゲーテ詩集』を読んでみることにした。と、その前に、ゲーテについても少し調べた。

 

……あまりにも色恋沙汰に生きている。

 

中でも驚いたのは、晩年にすら17歳の少女に最後の熱烈な恋をしていたことだ。この少女に対しては求婚するも断られており、55歳も年下の少女への失恋から「マリーエンバート悲歌」などの詩が書かれたらしい。

 

ゲーテ詩集』に載せられた詩の多くが恋についてのものだ。女の子に送ったものも多い。私が気に入ったのは1775年に書かれた、リリーという女性と恋に落ちた初期の作で「あたらしい恋 あたらしい生」という詩だ。

 

あたらしい恋 あたらしい生

 

心よ わが心よ どうしたというのだ

こんなにはげしく おまえが たぎるとは

まったくちがった あたらしい生

これが おれの心だとは思えない

おまえが愛していたすべては消え失せ

おまえが憂いていたものも消え去り

おまえの努力も おまえの落ち着きもなくなった

どうして おまえはそうなったのだ

 

春の花のすがた

あの愛らしいおもかげ

まごころと情愛にあふれたまなざしが

かぎりない力でおまえを縛りつけたのか

おれはあのひとから身をすみやかに引きはなし

思いきって逃れ去ろうとするが

またたくまに ああ 俺のゆく道は

あのひとのところへ戻ってしまう

 

そして 断とうとして断ちきれない

この 魔の細糸で おれを

あの愛らしい いたずらな娘が

たあいもなく しっかりつないでしまった

もう あのひとの魔力の圏のなかで

あのひとの意のままに生きるほかはない

ああ なんという大きなこの変わりよう

恋よ 恋よ おれを縛めから解いてくれ

ゲーテ/井上正蔵訳『ゲーテ詩集』グーテンベルク21(2006年)より

 

 

一言でいうと、

 

君のこと好きすぎて知らん自分生まれたし、もう離れたくても離れられないし、どうしようもないのだが?

 

という趣旨の詩だ。

もうどうしようもないくらい恋しちゃったんだが?という気持ちが熱烈に伝わってくる詩である。なんだか笑っちゃうけど、泣きたくもなる。こんな風に恋に落ちちゃうことって私にも、きっとあなたにもあると思うので。

 

しかし、『詩を書く少年』の中の少年は、恋をした先輩Rに対し以下のように述べている。

 

「『この人は天才じゃないんだ。だって恋愛なんかするんだもの』」

 

そう、少年は恋愛をしたことがない。だけれど、恋愛の詩を書いていた。

少年は感じたことがないことまで、器用に辞書から引っ張ってきて、綺麗に整えて、書いていた。言葉の意味を知っていても、その言葉を肌で感じて、知っているというわけではなかった。

いや、「知る必要性を感じていなかった」。だって彼は「綺麗な詩を書く自分」に陶酔していて、美しく、満足に「詩を書く」という行為さえ出来ればよかったのだから。

 

三島由紀夫の中で「詩人」とは何であったのか

さて、三島由紀夫の考える「詩人」ということについての私なりの答えが何となく見えてきた。

 

「詩人」はきっと、自分の心の内から出てくる言葉を、自らの感情の揺らぎを、作品に生きたまま描き出せる人なのかもしれない。

だから、感情よりも「詩」が先に来ている少年は、何も感じぬままに言葉遊びをしていた少年は、どんなに綺麗な言葉の羅列を並べても「詩人」にはなり得なかったのだと思う。

 

 『詩を書く少年』の中で恋をした先輩のRは以下のように言っている。

 

ゲーテはウェルテルを書いて、自分を自殺から救ったさ」

「でもゲーテは、詩も何も自分を救えない、自殺するほか本当に仕方がない、って心の底から感じたからあれが書けたんだよ」

 

 

『若きウェルテルの悩み』は、青年ウェルテルが婚約者のいる女性に恋をし、叶わぬ思いに絶望して自殺するまでを描いた小説だ。

 

「詩人」であったゲーテは、「自殺するしかないと心の底から感じたから」ウェルテルの苦悩を生きたまま描き出すことが出来た。

結果として、『ウェルテル』はベストセラーとなり、主人公ウェルテルを真似て自殺する者が急増するなどの社会現象を巻き起こした。

 

本当に感じたことを、情景豊かに描き出せる人間は、多くの人の心を掴み、行動させる魔力を持っている。そして、自分は「そうではない」。

 

「詩人では、ない」

 

そのことに気付いた時、きっと少年の一つの、幸せな時代が終わったのだ。

 

そして、「少年」であった三島はその後ずっと、「詩人足り得る自分」を熱烈に志向していたのかもしれない。

三島由紀夫は自決の6日前、「坊城俊民宛ての書簡」にて、自身を「詩人」と思い込み、坊城と手紙の交換をしていた14、15歳の頃が、〈小生の黄金時代〉で、その時以上の〈文学的甘露〉はなかったと回顧しているのだそうだ。

 

「詩人」への熱望は、きっと執筆の原動力の一つになっていたのだと思う。

何かを強く望む人間ほど、コンプレックスのある人間ほど、何かを成し遂げようと思う人間ほど、命をぎらぎらと輝かせるものだと、そう思ってしまうのは。

いいえ、そう思いたいのはきっと私が弱い人間だからなのかもしれないけれど。

 

三島由紀夫を貫いていた「詩人」への狂おしいほどの憧れに気付いた今、また彼の作品が違った色を帯び始める可能性が出てきたことは無視できない。

そうなると、私はやっぱり三島由紀夫から離れられない。文学は辛く、楽しく、そして少しだけ恋に似ている。

 

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ところで、「詩人」は自分自身のことを「詩人だ」などと思うのだろうか?

 

彼が、私たちにとって「詩人」である可能性について、語る価値はないだろうか?

三島由紀夫の文学は、今も多くの人の心を動かしている。

 

このことについてはもっと作品を味わいつくした後に、できれば誰かと話してみたい。

それでは、またお会いしましょう。お元気で。

男尊女卑モラハラ男に対して一緒に怒ってくれる理想の上司なんていないから、私はお姫さまになってしまった

皆様、ご機嫌麗しゅう。

本日わたくしは、苦肉の策として姫になることにいたしました。

 

会社で購入しているある物品があるのだが、それを発注する先の男性職員に酷く失礼な物言いをされたことがある。

 

恐らく歴史のある会社、もしくは男性社会、その両方で働いている女性の皆さんであればわかっていただけると思うのだけれど、この世の中には残念ながら、女の子というだけで小馬鹿にしたような態度を取ってくる、なんとも失礼な殿方がいるものだ。

男尊女卑やモラハラと言われるようなそれらを絶対に許してはならないと思う。

田舎で歴史のある私の職場では誰一人として(女の子の同期ですら)一緒に怒ってはくれなかったし、理解もしてもらえなかったけれど。

 

若い女の子だから。それだけの理由でまともに取り合ってもらえなかったとき、私たちは社会に除け者にされて、敗北したような気持になる。

本当はそんな人ばかりではない。そんなことは分かっていても、胸に生まれた積乱雲はぐるぐると渦巻いて大きくなり、やがて私たちを完全に飲み込んでしまう。

そしたらもうその日は美味しいご飯の魔法も、かわいいメイクの魔法も使えなくなってしまう。なんだか景色は灰色で、靄がかかったみたいになってしまうから、本当に、つらい。

 

ところで、その失礼な男性職員は毎月、月初めになると納品のためにやってくる。

悲しいことに、その物品を受け取るのは私の担当なので、どうしても、どんなに嫌でも、顔を合わせなければならない。

 

それで、ここ数か月、ずっと月初めが憂鬱だった。

そのうちに、憂鬱であることにも腹が立ってきた。どうして私がこんなに嫌な気持ちにならなければならないのか。この状況を打開できる策はないか?

 

相談した男性上司に言われた。

 

「へえ、そうなんだ、よくある話じゃない?」

 

その一言にまともに傷ついた後、気づいた。他人事であれば全く心は動かないのだと。

彼を同じ日本国に生を受けた、近くの人間だと思うから腹が立ってしまうのだと。

他人事にしてしまえば、大して腹は立たないのではないかということに。

 

ということで、私は苦肉の策として、一国のお姫さまになることにした。

なぜお姫さまなのか、それは、もう王族にまでなれば一般市民のことなど全然他人事なんじゃない?と思ったからだ。あと単純に憧れている。大体の女の子はディズニープリンセスに一度は憧れたことがあるんじゃないかと思うのだけれど、私はもう、年中憧れている。大きなふかふかの天蓋付きのベッドで寝てみたいと毎晩思うもの。

 

そんなわけで今日の朝、自室のアパートを出た先に広がっていたのは、職場まで続く綺麗に洗われたレッドカーペットと、愛おしい私の国の朝の風景だった。

 

ああそうだ。私は今日、「お姫様」なのだった。

 

小鳥たちは囀り、すべての動植物と国民から私は愛されており、私もすべての動植物と国民を愛しているという、なんとも世間知らずでかわいらしい一国の姫らしき確信とともに、一日はスタートした。

いつもは憂鬱な午前中もなんだか心が躍る。国民たちは皆このように電話を取り、挨拶をしているのか。この服もいつもと違って軽くて良い。

いつもはふんだんにレースをあしらった、重たいドレスばかり着させられているのだ。

 

うきうきと浮ついた気持ちで席に座っていたら、呼びかけられた。

 

「姫、面会の者が参りました」

 

「あら、ありがとう。誰かしら?」

 

微笑んでから、すっと立ち上がり、背筋を伸ばしてお迎えにあがることにする。

自席で面会の者を待つなんてはしたないことはしない。何故なら私は賢いお姫様だからだ。

(これは余談だが、養老孟司氏が著書の中で「小物ほど部下を呼びつけるものだ」というようなことを述べていた。その通りだと思っている)

 

面会をしに来たらしい男は、へらへらと笑いながら立っていた。

 

「これ、納品書なのでぇ」

 

あら、随分はしたないお顔をしてらっしゃるわ。それに、言葉遣いも独特。一体どちらのイントネーションなのかしら?

可哀そうに、きっと十分な教育制度のない国で育ったのでしょう。

他国の平民なんて有象無象に過ぎないと大臣さんが仰っていましたけれど……私が気にすることではないのかしら。住んでいる国も全く違うのですし。

いえ、他国の民のことも愛してあげられるはずですわ。何故なら、私は良い王女様にならなくてはならないのですから。

 

 

……といった形で、今日という日を乗り切ることができた。

驚くほど腹も立たなければ、悲しくなることもなく、なんならとても気分よく一日を過ごすことができたし、上機嫌であった分、周りの大切な自国の皆さんと幸せをいくつか共有することもできた。なんというWIN‐WINな作戦であろうか。

多少自己陶酔しすぎて後で一般人に戻るのに苦労することだけ難点だけれど、多分あと数か月はこの作戦でいけると思う。

 

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ところで、私の国の法律では努力する女の子は皆きちんと地位が与えられて、称賛されることになっている。ビザをとりたい方はいつでも仰ってね。

それから、そちらのお姫様方は、今度お茶でもいかがかしら?