私たちは一度目のデートで奢らない男を気にしている場合ではない
「一度目のデートで 奢らない男とかあり得ないって思わない!?」
お酒を飲みながら友人が息巻いたのでどきりとする。それまでざわざわとしていた居酒屋は一瞬にして彼女と私だけの空間になってしまった。
ソーシャルディスタンスにより斜め前に座った彼女は指先が白くなるほど強く、ビールジョッキを握りしめている。私は一先ず食べかけた枝豆を置くことにした。
いつもはこのような類のことは口に出さない彼女だ。一体どうしたのかと尋ねると、どうやらマッチングアプリで出会った男の家の近くまで小一時間掛けて会いに行って、食事をしたのだという。そしてその食事代がまったくの割り勘だったらしい。
私はと言えば、ありきたりだけれど人生で初めてされたこの問いかけに、どう答えたらいいのかわからず内心ひやひやしていた。が、ありがたいことに彼女は私の返答を待たずに続けた。
「一回彼が「奢りますよ」と言ったから、「払いますよ、悪いですし」って言ったら、「そうですか」だって。きっちり半分!あり得ない!」
「これだから恋愛慣れしてない男は嫌なのよね、こっちは交通費払って会いに行ってるのに、しかも全然タイプじゃなくて、それで……」
なるほど、彼女は「奢ってくれなかったこと」ではなく、全くもって大したことないように思える男にすら「奢ってもらえる女」でいられなかったことを嘆いているのかもしれない。そんな自分を認められないから、怒っているのかもしれないな。
と勝手に解釈してしまってから、適当に相槌を打って、氷の解けて温くなった果実酒を消費することに集中した。中途半端に薄くなった林檎の果実酒は、私をやけにその場から孤立させた。
「一度目のデートで奢らない男」と「奢ってもらえる女でいることに囚われる女」、どちらが愚かで、どちらが恋愛慣れしていないのかという議論については、この広い世界の誰かに任せることにしたい。
「あり得ない!本当に。理系で芋くさくて話も全部つまらなくて……」
さて、彼女の怒りは収まらない。あっという間に、果実酒はなくなってしまった。手元を盗み見るとおはじきくらいになった氷がグラスの底に申し訳なさそうに座っている。汗だくのグラスがべったりと手にはりついている感触だけが妙にはっきりとしていて、とりあえずグラスを恐る恐るテーブルに戻した。
それから、手元のおしぼりでこっそりと、しかし馬鹿丁寧に手に付いた水滴を拭っていたら、彼女がほとんど叫ぶように言った。
「これだから理系の男は!!!」
スマートで話の面白い、そして決して女の子のプライドを傷付けない素敵な人に、理系も文系もあるものか。なんてこと、本当は彼女も分かっている。もうすっかりなりふり構わないご様子の彼女の暴論になんだか私もやけくそになって、「そうだ、そうだ」と囃し立て、その後は二人で楽しく呑んだくれた。
多少酔いの醒めた帰り道、ふと、彼女の怒りの別の可能性について思い立った。
そういえば彼女はデートのその日まで一度も彼に会ったことがなかったのだけれど、かなり頻繁にメッセージをやり取りしていたと言っていたのだ。
となると、彼女にとって彼が本当に、吃驚するほど期待外れだったのかもしれない。逆に言えば、彼女は彼とのロマンスに恋焦がれながら小一時間電車に揺られて、甘い気持ちで胸をいっぱいにしながら、いや、甘い気持ちを垂れ流しながら改札を出たのかもしれない。
彼女は恋をしていた。
だから、裏切られたように感じているのかもしれない。
マッチングアプリをしたことがないからわからないけれど、聞くところによればプロフィール欄が嘘だらけ、写真は別人、なんてよくあることのようだ。oh、ミラージュ。テレビのニュースも、ネットの記事も、私たちは誰かの作り出した幻に翻弄され続けて生きているのかもしれなかった。そうよ、この記事だって。
さて、一つだけ、彼女に言えなかったことがある。
いや、言わなかったのだ。誰かから言われたところで大したことはないと思ったので。
お金を出しても会いに行きたいと自分で決めたのなら、いいえ、お金なんて出していなくても、自分の時間を使って誰かと会いに行くのなら、その一日を自分自身が楽しめるかどうかのハンドルを相手に握らせてはならない。
そう、そもそも「奢られたか、奢られなかったか」なんて自分が楽しかったのならさして問題にはならないはずだ。
「彼にとって私はお金を出すに値する女なのか」ということに一瞬たりとも囚われてはいけない。だって彼のことばかり気にして楽しくなさそうな女の子より、多少乱暴にでも好き勝手やって時間いっぱい楽しそうな女の子のほうが100倍魅力的だと思いませんこと?
少なくとも私は、どんなに自分にとってつまらない状況でも面白おかしくしちゃう賢い女の子が好きだし、少しでもつまらない男の子なんて相手にしない、どんなに相手に失礼だろうがお札を叩きつけて帰っちゃって、なんならその足で書店か映画館に寄っちゃって、そんな自分に陶酔できちゃう、ある種肝の据わっている女の子が好き。
女の子なら世の中のすべてを、自分で選んで味わいきれた方が良いに決まっている。
もちろん、男の子や、世の中のすべての皆さんだって。その資格を誰もが持っているはずだ。
だから私たちは、一度目のデートで奢らない男も、一度目のデートで奢られるか心配している女も、それ以外の有象無象も気にしている場合ではなく、もっと誰かと一緒に過ごす一日を思うままに味わい尽くして、やりたい放題やってやろうじゃないの。
……でも本当は、気弱で優しい彼女のことも私は好きなのです。
冷静でいられなくなっちゃうほうが、誰かに対して感情を振り乱しているほうが、恋する女の子らしい感じがするから。
そういう意味では、彼女は本当に寂しくて愛おしくて、少し羨ましい、私の大切な友人です。