私たちの中に棲んでいる魔物と、暴れるしかない私と、あなたと
「それにしても……いい歳して管理職にもならない男なんてどうかと思うのよ」
という上司の言葉を聞いて、どきりとした。
狭い作業部屋には雨音が響いている。窓の隙間から入り込んでくる湿気た空気は、とりあえずこの世界と溜まった仕事をうんざりさせるのにはもう十分すぎるほどで、つまるところ私たちは二人、溜まった仕事を片付けながらあれやこれやと話をしていた。
一緒に仕事をしていた私の上司の一人である彼女は「自分が管理職である」という話が好きなので、今日もその話をしていたのだ。
話は「女性活躍」から、「男女関係なく評価されるべきだ」と変わり、「それなのに男の人は私たちを差別する」という話になってから、もう一度「女性は管理職となり活躍するべきだ」というように移り変わっていた。
私はなるべく作業の手を止めないように意識して、さりげなく、いや、さりげなく見えるように細心の注意を払いながら、冒頭のセリフを言い放った彼女の顔を見た。
半笑いのその目には、自信とも不安ともとれない、灰色の何かが渦巻いている。
突然耳元でテレビの砂嵐みたいな音が聞こえたような気がして、私は一瞬にしてどんな顔をしたらいいのかまるで分らなくなってしまった。が、一先ず微笑もうと努めた。上手くは笑えていなかったと思うけれど。
社会人になってから、微笑むことがこんなにも難しいことだったのだと痛感している。
「仕事以外に、なにかやりたいことがあるのかもしれませんね」
これは彼女が求めている返答ではないと思いながらも、引くことは出来なかった。
「趣味に生きたい人なのかも」
「そんなこと、ある?」
「そんなはずあるわけがない」というように、彼女の声は責め立てるように大きくなる。私はもう泣き出しそうになりながら、なんとか次の言葉を考えた。
「……何もやりたいことがないなんて、そんな悲しい人、いるでしょうか」
ほとんど祈るように私は言った。この話は終わらせたかった。
だって、どんな人でも、男でも女でもそれ以外でも、好きに生きていいはずなのだ。部下のマネジメントをしても、スペシャリストとして生きても、そんなことに囚われるのはやめちゃってのんびり本を読んで生きても、何をしたって個人の自由のはずだ。
何もしない、ということすら、やりたいことの選択肢の一つかもしれない。
が、そんなことは、少なくとも私が今言うべきことではないし、どんなに苦しくたって、「そう思いたい」彼女を批判する権利は私にはないのだ。
これは、彼女の問題だ。でもどうして、こんなに胸が苦しくなるのか。一体何と対峙しているというのか。
雨足は強くなる。誰かれ構うものか、という音をさせて、窓の外を車が通り過ぎて行ったために、私は窓際で冷えた体を急に思い出して、身震いをした。
静かに作業に戻りながら、彼女が今まで見てきたものに思いを馳せることにする。
明らかな田舎で、男性社会。一般職として入社して、それでも小さな会社だから仕事はたくさんあって、そして、その中で客観的に見ても明らかに自分より働いていない人が自分から見れば男だというだけの理由で昇進していく。悔しかったのかもしれない、苦しかったのかもしれない。
だからそれが、彼女を「女性活躍推進という便利な毛皮を被った男性批判の魔物化」へと駆り立てるのかもしれなかった。誤解を避けるために伝えておきたいのだが、なにも彼女が悪いという話ではない。誰の心にも似たような魔物は棲んでいる。
「偏見」という魔物。
正直、彼女のセリフを聞いた時、私は背中に冷や水をかけられたようだった。
誰の心にも形を変えて、彼女の被っていた「便利な毛皮」は置いてあるのかもしれないと思ったからだ。そして、私の心にも明らかに、この「魔物」は棲んでいた。
私たちが例えば、女性の方が優れている、男性の方が優れているとか、本を読まない奴は馬鹿だとか、あいつらより自分の方が賢いとか、「こう思いたい」と思ったとき、魔物は姿を現して、私たちを誘惑する。
きっとこの魔物は本当の意味では倒すことはできなくて、それでも、抗わないといけないと思うことには説明がつかないままだけれど。
それでも、今の私は抗っていきたい。
ひょっとしたら、この気持ちの出発点でさえ、「魔物」なのかもしれないと思いながら。
そして、きっといつまでもこのままではいられないと、微かに予感しながら。
私もいつか彼女のように、何かを「そう思わなくてはいられない」と思うような経験をするのだろう。そして、それだけ私たちは価値観めいたものを手に入れて、別の何かを失い続けるのかもしれない。
そのことに目を向けたくない私はまだ若くて、愚かで、欲張りで、まだほとんど何も持っておらず、同時に何か、燃えるような、ぎらぎらとした、今しか持てない何かを持っているのかもしれないのです。
今日のことを忘れずにいたくて、明日にはいなくなってしまうかもしれないこの気持ちを残しておきたくて、それでこの文章を書いている。
魔物を「魔物」と呼び、何も捨てられなくて暴れまわって抗う道しか見えない今日のことを、いつかの私や、かつて何も持たずに暴れていた誰かが見つけて、ああ若いな、なんて笑ってくれたら。
そんな風に思う。